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/ 上野 歩
monthly essay / ueno ayumu

ぴー吉 第190回 東北秘湯紀行

 新青森駅構内の「めぇ」という食事処でバラチャーシュー麺(980エン)を啜っていた。テーブルの向かいで、妻は太宰らうめん(840エン)というのを食べている。新ワカメと竹の子の春の香りのすまし汁、若竹汁が好きだった太宰にちなんだ、このお店の看板メニューであるようだ。太宰治は青森の観光資源である。
 冬型の気圧配置が強まり、3月の最低気温の記録を更新する関東から、再び真冬に戻ったような東北にやってきていた。3つのディープな温泉をめぐるのが今回の旅の目的である。

・青荷温泉(青森県・黒石)

挿絵  一軒宿の青荷温泉は、ランプの宿としてつとに知られている。文字通り、宿の主(おも)だった明かりはランプの灯のみ。電気は通っていない。ゆえに部屋にはテレビも冷蔵庫もなく、携帯電話の電波も圏外である。
 部屋も、廊下も、食事処も、温泉も、ランプの灯だけが頼りだ。だから、3時前に宿に着くと、陽のあるうちに(とはいえ外は雪が降っているのだが)、部屋で今夜眠るための布団を敷く。
 で、夫婦それぞれ温泉へ。
 僕が向かった露天風呂はヒバ造りの屋根がかかっているだけで、ほぼ野外である。まあ、露天風呂なのだから、外にあるのは当たり前なのである。
 しかし、気温零下の雪の中だと、かけ流しとはいえ湯がぬるくなる。
 屋根の外に置かれた、雪ん子のような三角のわら傘で覆われただけの樽風呂にも入ってみたが、こちらの湯のほうが(容積が少ないせいか)温かく感じられた。

 露天風呂の斜め前にも温泉施設がある。屋内から窓の向こうに山の斜面を覆った雪を割って流れる滝を望む、この「滝見の湯」もヒバ造りである。太宰治が『津軽』で、青森の名産はリンゴではなくヒバであると書いているのを『月いちエッセイ』の「第140回 三陸(後編)恐山〜大鰐温泉〜竜飛岬」でも紹介しているが、青荷温泉でもそれを感じる。
「滝見の湯」にも小さな露天風呂が併設されているが、こちらは屋根もなく、足首まで浸けてみるが完全に水である。むろん、入浴は諦めた。

 宿には自家発電の電気があるので、売店では冷たい缶ビールが買える。屋外に置いておけば缶ビールは冷えるどころか破裂してしまうだろう。
 部屋に戻ってビールを飲む。2缶飲む。
 暖房は石油ストーブだ。石油ストーブのにおいは昭和のにおいである。実家もアラジン社の石油ストーブだった。父はその上で熱燗をつけていた。
 軒先に長く太い氷柱が下がっている。それが、ランプの灯を受けて輝く。アラジンと魔法のランプという言葉がふと浮かぶ。面白くもない連想が、ゆるやかに心に満ちる。
 春の雪がしんしんと降る。根雪の上にさらにそれが粉のように美しく重なる。
 なにもない、簡素だがゆったりとした時間が流れる。この時間をつくるために、宿は除雪車を使って、山の奥のここまで送迎のマイクロバスが走れる道をつくっている。非常に手の込んだ簡素さなのだ。

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