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/ 上野 歩
monthly essay / ueno ayumu

ぴー吉 第115回
My Favorite Movies−2.『チャイナタウン』(1974年、アメリカ)
〜お洒落探偵の悲劇〜

挿絵  故・伊丹十三氏が俳優として出演したドラマや映画、監督した作品などがちょっとしたマイブームで、ここ数日、関係書籍を読んだり、DVDや古いビデオを眺めたりしていた。
 そうしたなかで、『伊丹十三の映画』(「考える人」編集部編、新潮社)にあった伊丹十三ロングインタビュー(文藝春秋『「お葬式」日記』より再録)を読んでいたら、つぎのような伊丹氏のコメントがあった。いささか長くなるが引用してみる。

 「ある人物を造形する場合、どうしても、なにがしかの誇張は必要なわけですよね。私の考えでは、この誇張を全部準備段階で消化しておく、つまり、シナリオや、衣装合せの段階でその人物の必要な誇張は全部済んでる、というのがさりげない演技の条件だと思うんです。たとえば「チャイナタウン」という映画の中で、ジャック・ニコルスンの探偵がギャングにつかまえられるところがある。ギャングの子分たちが探偵を押さえつけているところへ、親分が出てくる。この親分をやってるのはポランスキーですが、彼は静かに探偵に近づき、ナイフを取り出すと、その先を探偵の鼻の穴の中に差し入れ、ピッと鼻を切り裂くんですね。つまり冷酷さの下拵えがシナリオの中で済んじゃってる。だからポランスキーは何の気負いもなく淡淡と演技することができるわけです。これが日本の映画やテレビでは、下拵えなしで、この親分は冷酷非情なやつなんだ、だから冷酷に演じてくれ、というんで誇張の責任が全部俳優のところへきてしまう。俳優はこれを受けて、一所懸命顔を歪めて凶悪な感じを出そうと熱演してしまう。これじゃ駄目なんですね。」

 これを読んで、伊丹氏の論に感心しつつも、僕の意識はさらにネットサーフィンのように『チャイナタウン』へと移ってしまった。

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