
車が嫌いなわけじゃないんです。
歩いているとき、なにげなく鼻歌を歌っていました。
「ぼくらはみんな生きている 生きているから歌うんだ」
朝ドラでも話題の、作詞やなせたかし先生、作曲いずみたく先生の名曲です。
ふと思います。
「ぼくらは」とは、どの人たちのことなんだろう?
生きている、というからには、ご先祖様は含まれていないんでしょう。
「歌うんだ」とは、誰が歌っているのだろう?
生きているから歌う、というのはなんかヘン。生きていたって必ず歌うわけじゃない。
「生きている人って歌っているもんだよね」という意味じゃなく、
「生きているなら歌え!」っていう意味なのかな?
うーむ。
そこで歌詞の初めから考え直します。
「ぼくら」の中心にいるのは、やなせたかし先生ではなく、
歌っている人を主とした「ぼくら」と考えたほうが筋が通る気になってきます。
「ぼくら」の「ぼく」は歌っている本人で、
生きている素晴らしさを「歌う」という言葉で喩えているのかなと。
「ぼくは生きていることって素晴らしいと思う」ってことです。
つづく歌詞で、自分の血潮を太陽で確認するあたりにも、生の実感、肯定感が表れていまるような。
まとめると、この歌は、歌う人の一人称目線でこんな意味なのかなと思いました。
ぼくは生きている。
あなたも生きている。
生きているから、この歌を歌ったり、悲しんだりできる。
太陽に手をかざすことでも、生命を感じられるだろう。
それが人にあらずとも、生きていることは素晴らしい。
生きものはみな素晴らしい。
みな等しく大切だ。
キティちゃんが無表情なのは、見る人のそのときの心境で、楽しそうにも悲しそうにも見えるからという話を聞いたことがあります。いつもよりそってくれているように感じると。
歌もまた聴く人の想像力で意味が変わって良いと個人的には思っています。
なので、今のところこれが私の「手のひらを太陽に」ということにしておきます。
「悲しんだりできる」って表現で考えてみると、歌詞の前向きさがわかりやすいかなあ。
というようなことを、歩きながら考えているわけです。
いま考えなくてもよさそうなことで、よく己の世界に入ってしまうんですね。
意識が精神世界にいて、現実世界で惰性で動いているといいことありません。
私は車の免許をとってはいけない人なんです。
もういつかのように、ゴミ集積場に自転車でつっこむような目に遭いたくないのです。
